業務ソフトベンダー・ソリマチの社長から小説家に転身――第16回

千人回峰(対談連載)

2007/10/19 00:00

篠崎紘一

篠崎紘一

小説家

 奥田 その営業手法は、自分で編み出したのですか。

 篠崎 当時はフランスベッドなどがこの手法で伸び出して、そのスパルタ教育ぶりも話題になっていました。そのスタイルを採用し、さらに独自の工夫も加えていきました。とにかく、工夫ひとつで売り上げは見事に違ってくるんですよ。それに、できる社員とできない社員がくっきり分かれる。営業会議では、成績の悪い社員に灰皿を投げるなんてこともやってましたね。

 奥田 今の篠崎さんのイメージとはずいぶん違いますね。

 篠崎 そうかもしれません(苦笑)。ほるぷには3年ほど在籍しました。その間、内部告発があったりして、7回も始末書を書いて…。まあ、その分、支局の成績はけっこうあがりましたけれどね。

 盛岡支局から青森支局へ、さらに秋田、山形事業部を経て、その後、岡山事業部に回りました。

 奥田 ソリマチの全国展開の原型はこの時に学んだんですね。

 篠崎 岡山にいる時、体を壊して田舎に帰ることにしたんです。当時の肩書きは販売事業部長でした。31歳で辞めた当時、月給は40万円を超えていました。それが反町税務会計事務所(ソリマチ)に入ると、大幅にダウンし、びっくりしました。

腰掛けのつもりでソリマチ入社

 奥田 ソリマチにはどんないきさつで入社することになったんですか。

 篠崎 何の当てもなく帰郷し、多少貯金もあったのでしばらくのんびりしようと思っていたのですが、じつは彼女が妊娠したことが分かって…。

 奥田 できちゃった婚のはしりだったんだ。

 篠崎 まあ、そういうことです。妊娠が分かった以上、結婚式を挙げなければと思ったんです。その際、無職じゃ格好つかないなと思って、地元ではそれなりに知名度のあった反町税務会計事務所に声をかけたんです。そしたら、いいよということで入社することになりました。ただ、会計の知識を持ってるわけじゃないし、給料は前の会社に比べて驚くほどの低額でしょ。結婚式のための腰掛け、というのが本音でした。

 ただ私、新しもの好きですから、当時注目を集め始めていたコンピュータにちょっと関心をもって、うち(ソリマチ)でやらないかと提案しました。

 数年後、コンピュータ関連の会社をつくることになり、反町秀司オーナーが「いいだしっぺのあんたにやってもらいたい」と言われたんです。1972年10月にソリマチを設立、社員は5人で、実質的な責任者として私が経営に携わることになりました。これが、本格的にコンピュータとつき合うようになったきっかけです。

田んぼのあぜ道にパソコン置いて使う姿をNHKが放映

 奥田 ソフトといっても幅広い。最初はどんな仕事をなさってたのですか。

 篠崎 立ち上がりは、電算機センターとして会計処理の仕事やソフトの受託開発をやってたんです。ソフトをやる以上、自前のパッケージソフトも欲しくなり、いろいろと知恵を絞りました。

 まず考えたのは、新潟生まれのソフト会社らしい特徴を持ったソフトを出そうという点でした。新潟で有名なものといえば米と雪。そこで、農家に役立つソフトを開発しようと思った。

 当時、米価は下降傾向で、農家は危機感を抱き始めていました。その農家に喜んでもらえるソフトということで、最初に開発したのが「稲作生育診断システム」。86年1月に発売しました。だけど、これは売れませんでしたね……。

 次に86年10月に「農業経営簿記」を発売しました。これが大きな話題を呼んで、NHKが農家に取材に行ってくれて。田んぼのあぜ道にパソコンを置いて使ってるところを撮る、というような演出までしくれました。

 86年ですから、パソコンを持ってる農家なんて村に1戸か2戸、ステータスシンボルとして座敷に飾ってあるような時代でした。

 進取の気性に富んだ農家ほどパソコン使うようになっていき、そうした農家は全国に13万軒はあるだろうと試算しました。会計事務所は5万あるといわれてましたから、決して少ない数ではないなと思っていました。

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