新しくもらった名刺は「小説家 篠崎紘一」となっていた。篠崎さんに最初に会ったのは二十数年前だ。この時、強烈な印象を受けた。「この人はどんな環境にあってもリーダーになれる人だな」と。こんなイメージをもったのは、ダイワボウ情報システムを立ち上げた山村滋・元社長(故人)以来だ。それだけに「小説家になった」と聞いてびっくりした。今回のインタビューで篠崎さんが小説家への道を選んだ必然性が理解できたように思う。【取材:2007年7月19日、BCN本社にて】
「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
<1000分の第16回>
※編注:文中の企業名は敬称を省略しました。
※編注:文中の企業名は敬称を省略しました。
新潟は祟られている!?
奥田 今は新潟県の長岡市にお住まいなんですね。地震、大変だったでしょう。篠崎 よく、地震が来たら机の下に潜れといわれるでしょう。でも、大きな地震だったら、とてもそんな余裕はありませんよ。身体が膠着して、身動きすらできない。2回ともそうでした。
奥田 ああ、3年前にも大地震があったんですね。
篠崎 そうなんですよ。2004年10月23日に新潟県中越地震、05年12月から06年にかけては大雪、そして07年7月16日の新潟県中越沖地震と、この4年間、何事もなかった年はないんです。
それで地元では、誰かに祟られてるのかなという話がよく出ます。新潟出身の歴史上の人物といいますと、上杉謙信、山本五十六、それに田中角栄の3人なんです。このうち祟るのは誰だろうと……。
奥田 あの本じゃないですか。「悪行の聖者 聖徳太子」。こんな本書いた奴は誰だって(笑)。
篠崎 私のせい? ほんとにそうなら光栄なんだけどな。
奥田 それに「峠」(司馬遼太郎)の主人公・河井継之介も、何で私の名前が出ないんだと怒ってるんじゃないかな。
それにしても篠崎さんが作家になるとはまったく意外でした。最初にお会いしたのは20年以上も前になります。私の第一印象は、あっ、この人はどんな環境にあってもリーダーになれる人だな、というものでした。それだけに、作家に転身されるなんて、予想外でしたよ。
篠崎 私、早稲田の学生時代、純文学作家を目指しておりました。文学に対する希求は社会に出てからもずっと持ち続けていました。いつかはまた挑戦してみたいと。
文学全集、百科事典の職域販売で営業の面白さ知る
奥田 作家転身のいきさつについては後でお聞きするとして、社会人のスタートはどこだったんですか。篠崎 児童書などを出している「ほるぷ」という出版社です。コピーライターとして入ったんです。当時のほるぷは事業拡大の一環として百科事典などの職域販売に乗り出していました。盛岡の支局長が辞めてしまい、私に行ってくれないかという話が飛び込んできたんです。
最初は、営業なんて初めてだし、都落ちもいやだななんて思ってたんです。とにかく行ってみることにしました。ところが、始めてみると、営業という仕事、また人を使うということが実に面白いことを知ったんです。
会社や団体などの職場を訪問して、お昼休みなどに社員に集まってもらい、平凡社の百科事典などを割賦販売する職域販売が中心でした。場の雰囲気を盛り上げるセールストークひとつで、売れ方がまったく違ってくるんです。