日・台の架け橋から、音の文化の守護神へ――第14回

千人回峰(対談連載)

2007/09/25 00:00

韋文彬

韋文彬

日本エム・イー・ティ 社長

リコーとイメージファイルの開発で共同研究

 奥田 ほほう。どんな転換ですか。

 韋 リコーから、パソコンを使ってイメージファイルを作るのに協力して欲しいという要請を受けました。当時、大型で高価なイメージファイルはあったんですが、光ディスクあるいはリムーバブル・ハードディスクを使って、もう少し手軽に使えるイメージファイルを作りたいということでした。

 それで、工業技術研究院の若手の研究者十数人を、リコーの秦野工場に派遣したんです。1年半ほど共同研究しましたが、この時の研究者の中から4人ほどが起業して成功しています。アクトン(ACCTON、智邦科技)、Dリンク(D-Link、友訊科技)、コアトロニック(Coretronic、中強光電)、アボコムシステム、アバメディアテクノロジーズの創業者などです。この中でアクトンとは、LANボードビジネスを共同して立ち上げました。そんな縁で、光ディスクを台湾で売ってよといわれて、リコーブランドで販売しました。

 奥田 アイ・オー・データ機器とも関わりがあったんですよね。

 韋 アイ・オー・データの細野昭雄社長とも知り合い、1990-95年にかけて、同社のマルチメディア系商品は、当社が調達のお手伝いをしていました。リコーの海外調達もお手伝いするなど、この頃は商社的な活動がメインになってましたが、95年に一つの決断をしました。

光ディスクの製造でメーカーを設立

 奥田 今度は何を?

 韋 メーカーになったんです。リコーは、イメージファイルの技術をベースに、光ディスクに進出、その音頭をとっていた坂巻資敏さんは、マルチメディアプリンタ(MMP)構想を唱えていました。紙に打ち出せない動画などもCD-R/RWあるいはDVD+RW/+Rなどの電子メディアなら取り扱うことができる、という主張で、私もそれに共鳴しました。

 それで、光ディスクを製造する「METテック」という会社を台湾に作ったんです。ドライブ、メディア、部品など光ディスク回りの製品を手がけ、2002年には台湾の証券取引所-日本でいえば東証第二部に当たります-に上場しました。

 奥田 光ディスクについては当社も相当力を入れた取材をしており、02年7月4日号では、「意気上がるDVD+RW/+R陣営」と題した座談会を掲載しています。当時のリコーの執行役員だった坂巻さんが音頭をとって、アイ・オー・データ機器の細野昭雄社長、三菱化学メディアの小林喜光社長、ロジテックの高木英亮社長という錚々たる顔ぶれが登場しています。裏には韋さんがいたんですか。

 韋 ええ、覚えてますよ。ただ、この頃から競争は一気に厳しくなっていきました。規格の対立を背景に、市場を拡大しつつ、主導権を握り続けるためには、コスト競争力が決め手になる時代を迎えたんです。

 ただ、私としては技術に愛着があり、そんなに安く売りたくないという思いも強く、その辺りのジレンマは坂巻さんも同じでしたね。結局、2004年にはドライブからは撤退せざるを得ない状況に追い込まれました。

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