日・台の架け橋から、音の文化の守護神へ――第14回

千人回峰(対談連載)

2007/09/25 00:00

韋文彬

韋文彬

日本エム・イー・ティ 社長

 韓国、中国、台湾……等々、近隣諸国を訪ねて「ほっとする気分」が味わえるのは台湾が一番だ。国と国というより、国民レベルで相互理解をしようとする風土ができあがっているように感じる。国と国のつき合い方としては、一つの理想形だろう。韋さんのような人のいることが、こうした風土形成の原動力だと思う。韋社長とは、日本ビジネスコンピューター(JBCC)の元社長・中島敏さん(故人)の紹介で知り合い、親しくさせていただくようになった。波乱に富んだ人生を送ってこられたことは知っていたが、これほどとは思わなかった。「音の文化を後退させてはならない」というのが、彼の持論であり実践目標だ。【取材:2007年5月29日、日本エム・イー・ティ本社にて】

 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第14回>

※編注:文中の企業名は敬称を省略しました。
 

日本びいきの父親の影響を受けて

 奥田 韋社長には私自身はよくお会いしてきましたけど、週刊BCNの紙上にはあまり登場してもらっていません。1997年11月24日号のKeyPerson「日本と台湾の架け橋役に」くらいなんですね。この記事でも「私は黒子」とおっしゃっています。コンピュータ産業において日本と台湾は“持ちつ持たれつ”という関係がうまく機能してきました。その背景で韋社長が果たしてこられた役割は極めて大きかったと思うのです。本日はその辺りのことをお聞きしたくてお邪魔しました。

 まずは簡単なプロフィールから。私と同い年の1949(昭和24)年生まれなんですね。

 韋 ええ、台湾の新竹に生まれました。父親は、戦前には日本で勉強、戦後も日本と台湾を行き来するような生活を送っていて、日本が好きでしたね。そんな関係で、15歳で来日、日本の高校で学び、大学は米国に行き、大学院は再び日本に戻って工学院大学を卒業しました。
 

流体力学でコンサルタント業

 奥田 大学は技術系だったんですか。

 韋 機械工学を専攻、純流体素子を学びました。純流体素子というのは、当時注目されはじめた新技術の一つでしたが、私、新しいことにはすぐ飛びつくほうで、それがこんなところに現れているんでしょうね。

 流体力学では、パターン認識とか画像解析などが技術の根幹をなしています。要は、計測して分析することが必要なわけですが、その分析、解析のために当時実用化されたコンピュータを使うようになっていました。それで、私もコンピュータの使い方を覚えました。

 28歳の頃ですから1977年ですか、初めて自分の会社「デジタル工業」を設立して、開発設計とコンサルタント業をはじめました。当時は、パターン認識や目視検査自動化の知識を持っている人はあまりいませんでしたので、引く手あまたといってよく、年に100社くらいのコンサルタントを行ってました。

 たとえば、山崎製パンからは、パンを常においしく焼く技術を確立したいという依頼を受け、パン釜の中が見えるようにカメラを設置、温度調節をどうしたらよいかなどの研究をしました。この時は、あまり成果は上げられなかったのですが、美浜原子力発電所の建設の時には、セコムの子会社である原子力保護システムと三菱電機に協力し、核燃料の出入り口の検査システムを構築しました。これは評価が高かったです。
 

台湾に戻ってこいよ

 奥田 「パターン認識」で、会社は順調に立ち上がっていたわけですね。それがコンピュータとの関わりを深めるようになったのは、どんな理由からだったんですか。

 韋 1980年に、台湾に戻ってこないかという誘いを受けたんです。当時の台湾は繊維、自転車、傘、運動靴などでは世界の重要なプレーヤーになっていましたが、政府の中には、これからはエレクトロニクス産業を育てるべきだという声を上げる方たちがいて、許金徳先生はその音頭を取るような立場におられました。

 許先生というのは新竹の出身で、当時は国会議員をしていました。父とは非常に親しく、私も子供時代は先生のお子さんたちと兄弟のようにして育ちました。先生は、アンバサダーホテルの創業者でもあり、東急ホテル、三菱電機などとは親しくつき合っておられました。そんな先生から声をかけられたもので、日・台の架け橋になれるような仕事ができればと思って、台湾に戻ることにしたんです。

 当時、政府の肝いりで設立されたのが、中華民国工業技術研究院(ITRI)と電子工業研究所(ERSO)で、アメリカなど世界に出ていた研究者、技術者を呼び戻しはじめていました。そのうちの1人に私が選ばれたということでしょう。

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