「運には恵まれました」と述懐する楢葉勇雄さん――第13回

千人回峰(対談連載)

2007/09/10 00:00

楢葉勇雄

大塚商会 元副社長 楢葉勇雄

 楢葉 社名は看板でわかりますよね。その社名だけは本物で、後は適当にでっち上げるわけです。その地域で働いてきた支店長なら、日報に書かれた社名から、窓口の担当者は誰で、どこの機械を使っているかまで分かる。ですが、私の場合はなんにも知らないんですから、まずは看板コールかどうかを見抜くようなところからスタートしなければなりませんでした。でも、日報をじっくり読んでみますと、結構見えてくるもんです。

「城北は人が育つ」と褒められた

 奥田 1973年に城北営業部長、75年には取締役に抜擢されて…。まさに駆け足で出世していかれたのですね。

 楢葉 当時、幹部社員は完全に不足していましたからね。電子リコピーを扱いだして、会社は急速に大きくなりつつあり、支店も急増していました。

 ものすごくうれしかったのは、「城北営業部は人が育っている」と大塚社長から褒められたことでした。

 セールスコンテストはいろいろ動いていましたが、最も重要視していたのは創立記念日に合わせた真夏のコンテストでした。このコンテストで、城北営業部は二番手、三番手に終わり、トップを取れない時代が続いていたんですが、1973年だったか74年だったか、トップを取ったんです。その時、大塚社長が「城北は人が育っている」と褒めてくれたんです。

76年には電算機の営業部長に

 奥田 1976年に電算機の営業部長になられましたね。大塚さんの自伝「風雪を越えて」では、この間の事情を「楢葉君は反対派の急先鋒だった。ま、反対派の親玉だね。理論派だし、営業の腕もいい。彼に託してみようと思った」と記しています。実際はどうだったんですか。

 楢葉 私は反対派の急先鋒だったとは思っていないんですが、「コンピュータなんかやめてしまえ」とは言ってましたね。電卓から1970年にオフィスコンピュータに入っていったところが、まあ、万年赤字。事業は、結局は人で決まる。だけど、当時のコンピュータ事業部は決定的な人材不足でした。部門長は、優秀な人間をよそに出すと自部門の業績に直接影響してくるので、手放さない。だから、新興のコンピュータ部門には人材が揃わなかったわけです。

 私自身は、会社の将来にとって重要な部門なら、もっと人材を投入すべだとは思いつつ、何しろ万年赤字なんだから、どうしようもない。そんなことから、コンピュータなんかいらないと言ってました。

 奥田 辞令がでた時はどう思いました。

 楢葉 最初に打診された時は青天の霹靂でしたよ。周りからは、貧乏くじを引くな、断ってしまえと言われました。私は貧乏くじとは思わなかったんですが、よくぞ選んでくれたとも思えませんでしたね。

 奥田 この時ですよね、私が楢葉さんに初めて会ったのは。当時、私も大塚さんにはそれなりに認められていましたから、「楢葉君の部隊にオフコンとはこんな商品で、将来性はこんなにすごいんだということを教えてもらえないか」という依頼を受けたんです。それで、楢葉さん以下十数人の部員の前で講義をしたんでしたね。

 楢葉 そう、そう。私、人生って運が80%くらいの比重を占めると思っているんです。この時、奥田さんと知り合えて本当に良かった。まさに運ですね。もう一人、綜合システムプロダクトの大野健社長と知り合えたことも幸運だった。大野さんは日本事務器を経て独立した人ですが、お二人と知り合えて、本当によかった。オフコンのことなんか何も知らなかったのに、何とかこなすことができたのは、お二人のおかげです。

 奥田 振り返ってみますと、1976年は大塚商会にとって大変な年だったんですね。オフコンでは、内田洋行と分かれてNECと手を結ぶわけで…。

 楢葉 私がオフコンを担当するようになってすぐの頃でした。内田洋行さんがサービスを自社でやりたいと言ってきたことが決別する直接の原因でしたが、大塚商会にとって、とてものめる話ではありませんでした。最初は富士通さんに接触して、厳しい条件を付けられて困惑している時にNECさんから声がかかったんです。私、まだコンピュータのことがよく分かっているわけではありませんでしたが、本業が文具系の会社である内田洋行さんよりは、NECさんのほうが将来性はあるだろうとは思ってました。

 そうはいっても、当初はNECさんには良いマシンがなく、苦戦続きでした。

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