常に新たなテーマに挑戦――第11回

千人回峰(対談連載)

2007/06/05 00:00

手嶋 雅夫

ティー・アンド・ティー 社長 手嶋雅夫

 手嶋 博報堂が実際にどんな仕事をやっているのか、あまり知りませんでした。たまたまあった会社説明会に出てみたら、面白そうな仕事なので試験を受けたわけです。二次面接では、いやなことばかり聞くので、けんか別れのような形になりましたが、“変な奴”の枠に入れられたんでしょう、合格通知をもらいました。

最初に手がけた「おむすび山」がヒット商品に

奥田
 博報堂時代はどんな仕事をしてたのですか。

 手嶋 営業です。部内では誰もが大手企業を希望するなかで、私は直接トップに会えるような企業がいいと思って、中堅企業を希望しました。

 1982年に入社したのですが、最初の頃の仕事で印象に残っているのは、ミツカンがふりかけに参入した時、お手伝いしたことです。当時ふりかけ市場は350億円くらいの規模でしたが、永谷園が独走状態にありました。後発として参入するに当たり、市場調査からプロモーションまでお手伝いしました。

 調査して分かったことは、「お弁当にもふりかけをかけていきたいが、時間がたつとグチャグチャになってしまう。そうではなく、4、5時間たってもかりかり感のあるふりかけが欲しい」という声でした。そこで、ミツカンではそうしたふりかけを開発し、「おむすび山」というネーミングも私どもが協力して決めました。おむすび山は発売と同時にヒットしました。ミツカンでは5月31日まで発売25周年記念キャンペーンをやっていましたね。

 そのほか、ソニーがウォークマンを発売した時のお手伝いなど、いろいろ楽しい仕事をやらせていただきました。

サムシンググッドに転身、Page Makerを日本に

 奥田 その博報堂をなぜ辞めたんですか。

 手嶋 両親を養わなくてはならなくなり、サラリーマンの給料では無理というのが直接的な理由です。

 サムシンググッドを起こした坂本桂一君とは高校時代の級友でもあり、1988年に同社に入社、常務として商品マーケティングを担当しました。当時、アメリカではDTPが注目を集めていましたが、私が窓口になり、アルダス社と接触しました。アルダスはPageMakerというDTPソフトを持っている会社です。先方の担当者とDTPで何ができるんだというような話になりますと、私も多少クリエイテイブな活動をしてましたんで、話が弾みまして、1988年11月にPageMakerの日本語化権、販売権を取得、92年には、アルダスとサムシンググッドの合弁でアルダス・ジャパンを設立することになり、私が社長に就任しました。

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