「ボクがライブドアを再生させる!」と血気盛んな平松庚三社長と対談――第9回

千人回峰(対談連載)

2007/04/09 00:00

平松庚三

平松庚三

ライブドアホールディングス 社長

 平松 3年間で累積赤字を一掃、黒字に転換することというのが条件でした。

 IDG時代に忘れられないのは、1994年12月1日です。万年赤字だった会社を、リストラなどにより3年かけて黒字が見込めるところまで持ってきたのですが、アメリカ本社のジム・カセラ社長が「辞めてもらう」と通告してきたのです。彼とは日本法人の経営方針を巡ってたびたび衝突はしてきました。だけど、クビとはまったく意外でした。納得できないと抵抗しつつ、社員に事の成り行きを説明したところ、多くの社員がCEO兼会長のパトリック・マクガバンのところに抗議のFAXを入れてくれたらしく、その夜、自宅にマクガバンから電話が入って、「日本に説明に行くので、12月1日に社員を集めておいてくれ」と指示された。

 その前日、成田についたマクガバンから電話があり、帝国ホテルでディナーを取りながら話をすることになりました。ジムの通告の時より条件は多少良くなってましたが、実質はクビでした。その翌朝、自宅で起床して1階に降りてみると、部屋の中が散らかって、窓も開いたまま。泥棒に入られていたんです。被害額は数万円で済んだけど、クビを言い渡された日に泥棒に入られた、こんな経験をした人は滅多にいないと思うんです。あまりの出来事に、大声で笑ってしまいました。講演する時には、最初にこの話をして関心を惹きつけることにしてるんです。

 12月1日のマクガバンとの話し合いでは、社員のほとんどが私の擁護に回ってくれて、ついにマクガバンも続投を認めてくれたんですが、そんなことがあって、94年12月1日は忘れられない日になってます。

230億円の買い物を24歳の若者に任せる

 奥田 結局、1998年までIDGの社長を務められ、AOLを経て、2000年にインテュイットジャパンの社長になられた。

 平松 インテュイット入社に当たっての最大のミッションは、クィックブックス(QB)の不振を打開することでした。創業者のスコット・クックが開発した会計ソフトで、アメリカやカナダでは良く売れていましたが、日本では全然ダメでした。

 半年間検討して、私はQBの販売中止を進言、スコットは「Up to You!(君が決めろ)」と言いました。苦渋の決断だったと思います。それから1年後、インテュイット本社のCEOであるスティーブ・ベネットから電話があり、「われわれは国内市場にフォーカスすることにした」と言ってきたんです。

 奥田 それで、MBO(Management Buy-Out=経営者による企業買収)に踏みきるわけですか。

 平松 そうです。95億円で落札、買収しました。出資者は、独立系のファンドであるAP40億円、インテュイットジャパンのマネジメントと社員持株会5億円、銀行からの借り入れ50億円でした。

 その後、社名も「弥生」に変更、完全に日本の会社になったわけです。業績は順調に伸びていました。ただ、MBOした会社は、投資家に報いるために4、5年後には株式を上場するか、転売するのが普通で、これをエグジット(出口)というんですが、私たちは転売の道を選択、いろんな会社に声をかけました。

 そのとき、ライブドアで窓口になったのは24歳の若者でした。管理職の肩書きも持っていないんですが、この人がどんどん話を進めていくんですよ。ほかの会社は、その件はいったん本社に持ち帰ってといって、1週間後ぐらいに返事がくるのですが、彼の場合は「ちょっと待ってください」といって電話し、「上司の許可を取りました」といって、どんどん話を進めていくんですよ。地頭のいい人だなーと感心してました。だから、契約の時まで、私は堀江さんには会っていないんです。

 奥田 230億円の買い物を24歳の若造に任せていたんですか。それはすごいな。

 平松 そういうことです。宮内さんにも会ったのは1回だったと思います。

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